よく「自然との共生」という言葉が使われます。この言葉を探っていくと、いろいろな立場の人の間でどのように環境を守る原理をつくるのかという、環境倫理まで踏み込んで考えなくてはなりません。 そこで、今回は、哲学が専門の安部浩さんに、未来世代への責任という環境倫理の中心テーマと、日本人が使っている共生という言葉の意味について語っていただきました。
総合地球環境学研究所助手
安部 浩 あべ ひろし
1971年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。
主な著書に『哲学は何を問うべきか』(共著、晃洋書房、2005)、『「現」/そのロゴスとエートス−ハイデガーへの応答−』(晃洋書房、2002)、『知の21世紀的課題−倫理的な視点からの知の組み換え−』(共著、ナカニシヤ出版、2001)。
わたしはこれまで主に、20世紀ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーの研究をしてきたのですが、いま取り組みだしているのは、ハンス・ヨナスの思想です。ヨナスは、もともとはハイデガーの弟子で、ハイデガーの哲学を批判的に継承した人です。主著は『責任という原理』という本で、日本にも多くの読者がいます。この中で、ヨナスは、「現代の科学技術によって人類の未来が危うくされる時代が来た。人類の未来を科学技術の脅威から救うためには、いまわれわれはどのように行動しなくてはならないのか」という問いをたてています。
要は、この本の中でヨナスは、「何よりもまず未来の人間を存在させなくてはならない」と言いたいのです。「人間が自然を壊すなら、人間は滅びた方がよい」という人もいますが、ヨナスはそういう議論にはっきりと「ノー」と言います。自然を守ることも大事だが、自然を守るためにはまず人類が存在しなくてはならない。では、いったいなぜわれわれは、未来の人間を存在させなくてはいけないのでしょうか。
ポイントだけ申しますと、われわれは、自分が、その存在を意のままにできるもの(例えば、危機に瀕している自然でもいいですし、まだ生まれてこない100年後の人でもいいですが)を、いまもみ消すこともできるし、存続させることもできる。この「自分の意のままにできるもの」に対し、われわれは責任があると言うわけです。
昔の倫理学ならば、倫理的配慮の対象は人間に限られていますし、人間は互いに平等です。ところが、ヨナスは、こうした対等な関係がまったく存在しない状況を想定して、「自分が一方的に意のままにできるほど、自分と相手との間に圧倒的な力の不均衡があるからこそ、自分より力のない相手の存在を尊重しなくてはいけない」と言うわけです。そこから、未来の人間というのは、今生きている人間の責任の対象であると言う。そして責任の対象であるならば、未来世代をわれわれは存在させなくてはいけない。非常に粗っぽく言うと、そういう議論を展開しています。
では「未来の人類を存在させること」の意味は何なのか。
「子孫には存在する権利があるから」とか、「未来の人類が幸福になるため」というようなことをヨナスは考えていません。乱暴な言い方をするならば、いまの自分たちが、親や先祖から、次世代に引き継ぐべき「責任というバトン」をもらっているからなのです。
譬えて言えば、親の世代が、「おれたちは未来の人間(つまり私たちですが)を残すべく責任を果たしてきた。いまそのバトンはおまえのところにある。おまえもまた未来の人にそのバトンを渡せ」と言う。それが彼の言う責任なんですね。
そして、未来世代もまた、さらにその後の世代にバトンを渡すという点だけに、その存在の意義がある。
したがって、この場合の責任というのは、「相手が責任を果たすことへの責任」です。つまり、未来世代の人達には、そのまた次世代において責任を果たしうる人間を存在させる責任がある。ということで、このようなヨナスの議論には、「人間であることとは、責任を負う者として存在することである」といった、きわめて厳しい人間観が見られます。
そして、「未来世代がどういう世界をつくるかは、私の知ったことではない。どういう文化をつくるかはわからないが、人類が生きていくためにはそれなりの基盤がいる。だから、未来世代の可能性を閉ざさないためにも、私たちは彼らにそうした基盤を用意しておいてあげなくてはいけない」というのがヨナスの立場です。
そこで、例えば水の問題は重要になります。水は、未来世代が生きるための欠くべからざる基盤としての意味をもっているからです。ですから、「現代世代のみで地下水を使い切ってしまい、あとは知らない」ということは、ヨナスの未来倫理では否定されます。
ところで彼は、責任の生じる根本的な事例は親子関係だと言います。この親子関係と現代・未来の世代間関係は、むろん似ている面もあるのですが、あえて両者の違いを言うならば、次の二点が挙げられます。まず赤ん坊は自分がつくった子。そこで「自分が直接つくったのだから、責任をもって育てよう」ということになります。これは未来世代に対しては必ずしも言えませんね。自分とまったく関係のない人が百年後に存在すべきかどうかが問題になる場合には、血のつながりに基づく責任に訴えることはできません。
それともう一つは、子どもの場合は、ひとたび生れてきたからには、現に存在していて生存権をもっています。子どもが権利を主張すれば、親には義務が発生するという点では、親子の関係は権利と義務の関係であるとも言える。けれども、未来世代は、まだまったく存在していないわけで、そもそも権利そのものを言い立てようがない。すると、権利と義務の関係という図式で考える近代の倫理学は、未来世代の存在を擁護するためには使えないということになります。
これを例えば、水の例に当てはめてみましょう。例えば「食料増産のために地下水を汲み上げて利用することが大事」ということが、みんなの合意で決まったならば、その決定には何の問題もありません。現代世代の枠組みだけで言えば、水の分配の不公平さということは問題になるとしても、現代世代と未来世代の間の不公平は問題にできないわけです。もちろん未来世代の代弁をする人はいるかもしれませんが、それをしなくてはならない理由はどこにもない。いまいるメンバーだけが集まり、納得のいく手続きを踏めば問題ない。これがいまの合意形成において、主流の立場であると思います。
ヨナスはそこを問題とみなします。議論のテーブルにつくことのできない未来の人達はないがしろにしていいのでしょうか。
そこで、ヨナスは、この問題を考える上で、学問としては三つの柱が必要だと言います。
一つは倫理学(道徳の原理論)。ここでは例えば、人類はなぜ存在しなくてはならないかといったような、根本的な問題が取り扱われます。
二つめは、こうした道徳原理を現実の諸問題へ実際に応用するための理論で、要するに政治理論です。あるいは公共政策論と言ってもよいですね。
三つ目は、「比較未来学」と名付けられていますが、一言でいうと未来予測です。例えば、いまの条件のままだと50年後に水はどれくらい残っているのかといったことですね。ここでは明らかに、自然科学の分野でなされている、モデルに基づくシミュレーションが、ヨナスの念頭にあります。
それぞれが関連し合っていますが、とくに一つ目と三つ目の関係は重要です。なぜなら、第一の道徳原理の核となる、真に価値あるものの発見は、しばしば第三の未来予測を通してはじめて行なわれるからです。
たとえばシミュレーションの結果、100年後には水が枯渇して、人びとが争いあう状態が到来するといった結果が出たとします。これを見てわれわれは自分たちがまったく思いもかけなかったひどい惨状が起こりうるということを理解し、そこから逆に、現在われわれが当たり前に思い、ないがしろにしているものの価値をあらためて発見する。
ヨナスは、このような考え方を「恐れに基づく発見術」と名付けています。この「恐れ」は、ただ単に最悪の結果といったネガティブな事柄を意味するだけではなく、現代の価値基準をゆるがし、われわれの蒙を啓いてくれるポジティブな意味合いをも持つわけですね。
そういう方法で、自分たちにとって本来何が大事なのかということが理解され、われわれの行動を決める倫理観が設定される。つまり未来予測がフィードバックされて、現在の倫理観に生かされるという関係が成立するわけです。その際、ヨナスは特に「一番悪い未来予測をもとに、現在の倫理観を導きだしなさい」と言います。これは、いまわれわれがよく耳にする「予防原則」とも重なる主張ですね。つまり最悪の結果を想定して、それが起こらないように先手を打って予防しようという考え方です。
これまではヨナスの考え方を紹介したわけですが、私自身は、いま参加している共同研究のプロジェクトにおいて、ある生態系が危機にさらされている時に、それをどのように守ったらよいかという保護理論を提出しようと研究を続けています。
私としては、日本で環境倫理を考える場合には、ただ単に頭で理解できるというだけではなく、我々日本人にとって、こんな言い方が許されるのであれば、「肺腑にストンと落ちる」ような土着の発想が必要だと思っています。そこでいま、及ばずながら日本思想の研究もやりかけています。
例えば、「共生」という言葉がありますが、現在の「共生」ブームは、日本独自の現象なのではないかと、私はかねがね思っているのです。英語でいえば、symbiosisやmutualismが「共生」にあたる言葉なのでしょうが、日本人と英米人とでは、語感は相当違うのではないかと思います。
例えば日本では、「自然との共生」という表現が大変広い意味で使われ、あげくのはてには、「火山との共生」とか「原発との共生」といったことまでも言われる。これは英語に直訳しても、おそらく全く通じないでしょうね。日本人の「共生」観を考える上で、わが国ではこのような言い方がなぜ通用するのかを探ることは、とても大事な作業です。
「共生」という言葉自体は、そもそも仏教から出てきたようです。仏教では「ぐうしょう」と読み慣わします。ただし仏教用語としての共生は、この語の現在の用法とはあまり関係がありません。「自分で存在すること」である「自生(じしょう)」、「他のものによって生じさせられること」である「他生(たしょう)」に対して、「共生(ぐうしょう)」とは、自生と他生が合わさった事態、つまり自分で存在しながら、それと同時に他のものによっても生じさせられていることを指します。
では、いま私たちが使っている「共生」という言葉のニュアンスは、どのような変遷を経て、かたちづくられてきたのか。わたしは、現代のわれわれの共生理解は、二つの歴史的事例で代表させることができると思います。
一つは、白樺派の作家として有名な、有島武郎による「共生」の用法です。有島は、自殺する前年に、北海道の自分の農場を小作人たちに開放します。そして彼らが自立して、共同で経営する農場に、「共生農団」という名前をつけなさいと言っています。
どうも大正時代には、共生という言葉は、共産主義でいう「共産」とほぼ同じ意味で使われていたようですね。ここでいう共産主義とは無政府主義の意味で、「あらゆる権力を排除して各人が自由に生きる」という意味です。そしてそこにはまた、「お互いに助け合って生きよう」という相互扶助の考え方があります。
ではひるがえって、現在われわれは、「高齢者との共生」とか「障害者との共生」といった表現で、一体どういうことを考えているのでしょうか。
グローバライゼーションという言葉が流行っていますが、これは、市場原理が世界を無制限に支配するなかで、「自己責任」という美名の下に、弱肉強食を容認する考え方だと言えるかもしれません。実はこのような考え方は新しいものではなく、すでに大正時代には見られる「社会的ダーウィニズム」とよく似ています。同じような主張が看板を掛け替えていまふたたび出てきている。こう考えてよいのなら、かつて社会的ダーウィニズムに対抗して無政府主義が流行ったように、いま共生という言葉が、「グローバライゼーションに対する、弱者のためのセーフティネット」という意味合いで、共感をもって使われているのではないかと思います。
次にもう一つの事例についてお話ししましょう。大正から昭和にかけて活躍した人で、椎尾辮匡(しいお・べんきょう)という浄土宗のお坊さんがいます。その方が、大正の終わり頃から「共生(ともいき)運動」なるものを始めます。「正しい心構えをもって、きちんとした生活をしよう」という修養運動です。大正時代には、第一次世界大戦による好況で、「成金」という言葉が生まれるほど拝金主義が横行する一方、「人生、カネだけでいいのか」と悩む、煩悶青年も出てきます。そうした青年の受け皿として、いろんな修養運動が生まれるのですが、「共生運動」はその一つなのです。ここで言われる「共生」とは、要するに「縁起」のことです。「縁起」とは「縁(よ)りて起こる」。つまりAによってBが起きる。AのおかげでBは存在できている。A、B単独で生きているのではないということです。つまり椎尾が考える共生とは、「ひとは一人では生きていけない。いろんな人のおかげ、社会のおかげ、さらに言えば、大自然のおかげ。すべてのものが助け、助けられ、つながりあっている」ということなんですね。
そして現代でもしばしば口にしたり、耳にしたりする、「わたしは生きているのではなく、生かされている」という言い回しの根幹には、以上のような考え方があるのではないかと思います。この「生かされている」という発想もまた、われわれ日本人にはわかるけれども、欧米人にはおそらく理解しづらいものなのでしょうね。
縁起は、関係論といいますか、みんな相互にもちつもたれつだという考え方ですから、悪くすると「なあなあ」になりかねない。例えば、どんなに自分にとって都合の悪い人であっても、「この人のいるおかげで私は存在できるという考え方をしなさい」という主張を産み出しかねない。つまり縁起という世界観の中には、絶対的な悪はない。悪が悪としてあるということも、ひとえに自分の見方によっているのでして、結局のところ、すべてマイナスはプラスに還元されうる。ということは安易な現状肯定になり、現実に対する批判のまなざしは育ちにくい。
こんなふうに仏教的思考は、ややもすれば、敵がいない、お友達同士の論理になり下がってしてしまう。そこで言われる共生は、お友達との共生であって、敵との共生ではない。敵は原理的に共生の範囲に入らない。でも私は、本当は敵との共生こそが、共生の名に価するものであると思います。つまり、「敵・味方」の二分法に立って、敵を入れないで味方だけと共生するといった共生観を壊したいというのが、いま私が考えていることです。
いま所属しているプロジェクトのリーダーである、湯本さんからの学問的影響ということもあるのですが、今申しましたような関心から、私は生態学に強い興味を抱くようになりました。例えば京大の堀先生は、こんな面白い研究をされています。アフリカのタンガニーカ湖に、鱗食魚というのがいるそうです。他の魚の鱗を食べる魚ですね。これにも何種類かあるのですが、AとBという2種がタンガニーカ湖という限られた環境にいるとしましょう。普通に考えると、この両者の関係は、同じ魚の鱗をめぐって、取り合い型の競争になります。つまりAとBは、敵対関係になるわけですね。
ところが堀先生の御研究によると、AとBは、両者が共通にターゲットにしている魚に対して、それぞれ襲撃する仕方が違うのだそうです。例えば、Aが前から襲うとすれば、Bは後ろから襲うわけです。すると、襲われる魚は、Aに襲われるかと思って前ばかりに注意を払っていると、後方への警戒がおろそかになり、Bに襲撃されてしまう。このことは逆も言えるわけですから、結局のところ、AとBは敵同士であると共に、友でもあり、相利共生の関係にあることになります。つまりここでは、敵であることと友であることは二律背反の関係ではないのです。
これは、「共生可能な友か、それとも共生不可能な敵か」という発想を乗り越える上で、非常におもしろい事例になります。
目下こうした二分法的思考では取り扱えないケースも睨みながら、論理の拡張と、新たな存在論の構想を自分なりに試みようとしているところです。
(2005年9月2日)