植物をありのままに生かす紙漉に魅せられて、この道に。やがて興味は紙原料の楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)を超えて、風土に根差した植物、身近にある植物へと発展していきました。いずれを用いても、紙漉というのは人類が長い歴史の中で繰り返し行なってきた文化から生まれた知恵です。 機能紙が優先されてきたアジアにあって、〈機能を求めない紙〉が表現する力を追求し続ける造詣作家 明松政二さんに、樹皮と水とのつき合いについてうかがいました。
造詣作家
明松 政二 かがり せいじ
1949年 大阪府泉佐野市に生まれる。
1973年 中央大学経済学部卒業後。
1982年 茨城・西の内和紙、菊池五介師匠から紙漉工程を学ぶ。泉佐野市に紙漉場を設け、以降独学。
1996年 三重県伊賀市霧生に工房の建設を開始。
紙漉は33歳から始めているんですよ。遅いスタートですね。
父親は梱包業をやっていたのですが、その仕事を手伝いながら、31歳のときに全国行脚しました。その前は役人で、東京にいました。
1977、1978年(昭和52、53)ごろ、第何期に当たるのか、柳宗悦さんの民芸運動のブームがあったんです。民芸がクラフトという言葉に置き換えられて、再び脚光を浴びた時代でした。
生来、ものづくりが好きで、美大に行きたいと思ったぐらい。そういう風潮に刺激されたのでしょう、全国行脚に出たんです。ただ漠然と、ものづくりが自分の将来の仕事になるんじゃないかと、全国のものづくり産地を見て歩いたんです。
仕事をしながら、約2年間をかけて日曜日や祭日になるとあちこちに足を運びました。今じゃ、考えられないけれど、車で寝泊まりしながらね。そのときには、もう結婚もして子供もいました。
漆だとか、陶芸だとか、木のおもちゃとか。漠然と、クラフトショップをやりたいなあ、と思っていたもんだから。
そうしているうちに紙と出合ったんです。当時、まだ全国に産地がありましたからね。もとからやってみたいという気があったもんだから、ちょこっと手を出した。それが病膏肓(やまいこうもう)に入るで、はまっちゃった。一番将来性の薄いものにはまっちゃった。
いろいろな伝統文化に接して、なぜ紙だったのか。紙はダイレクトに植物に近いんですよ。もろに繊維。一番、手をかけない素のまま。木工なんて、ものすごく手をかけるでしょ。それに漆を塗ったりしたら、自然素材と言いながらも、自然からすごく離れてしまった気がする。
洋紙の場合は見ても感じないけれど、和紙の場合は繊維が長いし、そのままだからダイレクトに訴えてくる。その繊維がアトランダムにダアーっと並んでいる。それが、ものすごく面白くてね。
なにしろ年いってから始めましたから、弟子入りする気もないし。自分で独学でやろうと。紙業試験所とか、みんな断られたんですが、茨城県・西の内の菊池五介さんが声を掛けてくださって。そこで試行錯誤でやらせていただいたのが、大きな始まりです。
800年から1000年前の紙を持っていますが、これは私のバイブルです。中国は元(げん)の時代の麻紙(まし)、朝鮮半島は高麗時代の楮の写経紙、日本は鎌倉時代の、多分、雁皮紙だと思います。当時、日本で漉いた紙は国紙と呼ばれていました。ほかには胎内仏、仏さんの中から出てきた何も書かれていない楮紙もあります。
繊維がダイレクトだから劣化しないんです。保存状態さえよければ、ずっと保ちます。朝鮮のは透かして見てもきれいでしょう。中国のは洋紙に近い。パッと見にわからないほど、緻密な簀の目ですね。これは版木で刷られたものですが、ものすごいシャープでしょう。元の工芸はすごかった。元にしても高麗にしても、騎馬民族のほうが工芸はすごいね。
今は、和紙を加工することはほとんどありませんが、昔は写経などに使う訳ですから、打って平らにして緻密にして使いました。打ち紙といって、石盤の上で木槌で打って平らに加工します。楮紙は虫に好かれるからよく虫食い穴が開いていますよ。中国ではあまり楮紙は発達しなくて、高麗や高句麗といった朝鮮のものが一番良いといわれた。朝鮮では和紙ではなく韓紙といいます。これらは、私のバイブル。
パピルスでつくられたのが「紙」だと思っている人がいますが、あれはペーパー。紙は繊維を並べたものなんです。触ってみると記憶に残りますよ。
菊地五介さんはもう亡くなられましたが、後継者の方はおられてまだ続けてやっています。私は弟子入りではなく、客分として扱ってもらった。しかも道具一式を譲ってくれたんです。紙漉の道具というのは、今では入手困難なものもあって、大変貴重なものですが、「やってみなさい」と言って譲ってくれた。そして半年間、材料も送ってきてくれた。
なんで、そこまで親切にしてくれたのかねえ。別に西の内和紙を継げ、とも何とも言われなかったけれど。何らかの志を感じてくれたのかなあ。半年間原料を送ってくれながら「自分で調達先を探せ」と言われた。秘伝も教えてくれたしね。師匠ではないんだけれど、恩人ですね。
こうして菊池さんに支えられながら、大阪という和紙の歴史がない場所で、試行錯誤の紙漉が始まりました。
うちには幸運なことに井戸があった。水はそれを使いました。泉佐野というぐらいだから、水には恵まれていた。しかし、近所にビルができたり、関西空港ができてからはダメになった。なんだか白い水が出て、調べてもらったら「飲まないほうがいい」って。一過性のものでしたから、今はもう大丈夫なんですが、あのときはショックでしたよ。自分の所の井戸が汚染されるというのは、ショックでしたね、浮気されたようなもんやね。だから、水は女房のようなもんだということ。水なくして、紙漉はできませんから。
紙漉に必要なのは、二つの「ヒ」と水なんですよ。ファイヤーとサンとウォーター。これなくしては、紙漉はできない。そして最後までかかわるのが水なんですよ。これで循環が完成する。
火も薪を使うのは、灰を取るからです。もちろん、ガスやなんかも使って構わないんですが、薪を使うことで大きな循環の〈輪っか〉が完成するんです。植物の繊維を原料とする紙漉の工程で、熱源に薪を使い、灰を取ることで、植物の命を余すところなく戴く。
灰汁(あく)は、適量の灰を水に浸けて(一夜浸け)つくります。アルカリ成分が水に溶け出した〈うわ水=灰汁〉を取り出して樹皮を中に入れ、無酸素状態にして放置して醗酵させます。醗酵バクテリアは樹皮の中のある成分を餌として喰う。喰い続けると樹皮の結束が解かれて軟化して繊維状になるのです。醗酵時点ではさまざまなものが一体となっていて、繊維を得るためには人の手によって、選り分けや水洗といった工程を経る必要があります。しかし、和紙原料を離れ、ほかの植物を用いる場合は、純粋な繊維を求めるのは難しい。それに複合、一体となった中での繊維を見るほうが面白いものが表現できます。
ですから、灰は紙漉には欠かせない材料なんです。沈殿した灰は肥料として播いたり、陶芸家にうわ薬としてあげたりしています。
今でこそ泉佐野市の住宅街になっていますが、昔は、この辺りはみんな田んぼだったんですよ。そのころは何の気兼ねもなかったんですが、今は薪は燃せません。苦情がきます。本当に消防車が飛んできたこともあった。今でも釜はありますが、もう使えない。それで伊賀に工房が必要になったんです。
大きな循環の〈輪っか〉を私に与えてくれるのが、伊賀の森です。材となる植物はもちろん、水と火も与えてくれます。取水するのに苦労があっても、沢水にこだわるのは、水の中にさまざまな生きものが在るからです。人にとって善い生きものも悪い生きものも、両方が在ります。大雨で沢が暴れれば土砂で取水口が詰まったり、パイプが破壊されたりしますが、沢水は苦労以上に多くのものを与えてくれます。
また採取した植物の樹皮を取れば、骨である木材が残りますね。それを使って火を取れば、灰が残ります。
こうして製作にかかわるすべてのものを、伊賀の森は与えてくれるのです。
紙というのは少し前までは、一枚の紙が障子紙になり、写経紙になり、傘紙になり、提灯になり、していた。ところが現代では、住宅に使う紙、文字を書く紙、アーティスティックに何の機能も果たさない紙、というように機能分化していった。医学と一緒ですよ。
私が今していることは、〈まったく何にも使えない紙〉づくり。
しかし日本と中国、韓国ではいわゆる機能紙、使うための紙ばかりつくられてきた。紙というのは、もともと使うために生まれてきたんです。それを痛感したのは、1983年(昭和58)に京都で行なわれた「国際紙会議 83 京都」に参加したとき。私はまだ半年ほどのキャリアしかなかったんですが、これに参加させてもらったんです。ここで再認識したのは、日本と中国、韓国では、いまだに機能が優先されるということです。
片や、ヨーロッパとかアメリカはアートですよ。「こんなもんもできるんだ」と目が開かれました。あれがなければ、いまだに書道紙とかを漉いていたかもしれません。一枚の紙が何かを表現できるんじゃないか、と思わせてくれるきっかけとなったのが、この「国際紙会議 83 京都」です。
一枚の紙が何かを表現できるんじゃないか、と国際紙会議で思わせてくれたことと、ダイレクトに植物に近い紙が、大きな循環を完成させる〈輪っか〉の中にある、という魅力に取り憑かれたこと、この二つが私が紙漉をやる根っこの部分にあります。
すぐにできるんじゃないか、と思ったんですが、実際には時間がかかりますね。
私が始めたころは、産地もまだ元気でした。それが急速に減少していくのは、世代交代の時期になったからです。跡継ぎがいないということは、儲からないということなんです。そして、とても手間がかかる作業だということなんです。素材がダイレクトに出るんだけれど、それを仕立てるのに、ものすごく手間がかかる。
ほかの商品に比べると、材料費のコストがとても高いんです。私は経済学部出身ですが、そうじゃなくても普通、原料コストなんて1割以下が常識でしょう。下手したらコストは3%とか1%でまかなうのが、今の市場のシステム。紙漉はね、ちゃんとしようと思ったら30%はかけないとできません。下手したら40%。
100円で売るものの、30円から40円が原材料費だけで飛んでしまって、残りで手間賃やら何やらをまかなわなければいけない。それじゃ、経済的に成り立たないですよ。それで、どうするかといったら輸入材を使うようになる。日本製の材料の10分の1以下で済むから。
今の経済はすべてこの論理で成り立っています。だから、これに合致しないものづくりは廃れるしかないんです。利益を生まないんだから。
最初は、楮を材料屋さんから買っていました。当然ですよね。ほかに入手方法がわからないんだから。やがて高野山中の半栽培の楮と出合って、そこから買うようにしました。でも、行ってみると川沿いとかに野生の楮が生えているんですよ。それで、材料が足りないから自分で取るようになりました。
そうすると、栽培のものと自然のものとでは、まったく質が違うことがわかってきました。虫食いの跡があったり、台風でやられた傷があったり。しかし、そこで痛んだ所だからといって、捨ててしまっていいのか、という疑問にぶち当たる訳です。栽培ものは、そんなものは撥ねてあって、きれいなところばっかり。
栽培種は毎年刈り取るものですから、成長点といって、伸びる芽の部分を残して枝芽を摘み取っています。真っ直ぐで節目がなく、3mもあるような長い樹皮が得られ、白皮作業もし易いのです。しかし、自分で採取した野生種だったら、樹姿がありますし、新枝の成長が遅いため50cmから1mがせいぜい。当たり前ですよね。その代わり、幹、古枝、新枝、とさまざまな個性のある樹皮が得られるんです。
こういうところが、お百姓さんがやる有機農法と似ていると思うんですよね。すべてをコントロールしようとする世界と、人間も、天気や虫などと一緒にその中で同じように生きていく世界とが別個に存在している。
これらの傷のあるところを捨てないでやるとしたら、そこでまた技術が変わるんですよ。
だから、私の紙漉は一般に思い浮かべるような船(水槽)の中にドロドロに融けた原料が入っていて、そこに簀を入れてすくい上げる紙漉とは、根本的に違っています。水を張ったプールのようなところに植物を投じ、手で叩いて馴染ませたり、水を撥ね入れたりしたのちに、水を抜いて乾燥させる。1800×4000mmという大きなものですから、材料の量も半端じゃないし、投げ入れたり叩いたり、身体全身を使いますから、本当に体力勝負なんです。しかし、この工程を経るからこそ、水との一体感を肌で感じて漉くことができる。水に投げ入れる音、水を叩く音も、従来の紙漉にはないリズムを生み出します。
言うまでもなく、一般の和紙は楮、三椏、雁皮という植物の樹皮からつくります。天然ものの楮を扱っていくうちに、ほかの材料はどうなのか、という興味が湧いてきました。樹皮そのものの美しさを表現できないか、と発願したんです。そこで、また全国行脚に出たんですよ。これでうちのかみさんが怒って夫婦喧嘩。それまでそこそこ売上が上がってきているでしょ。そんなときに全部投げ出して、また旅に出ちゃったんだから怒るよね。それが42歳、厄年のときです。
日本は南北に長いから、ものすごく植生が豊か。それで亜寒帯から亜熱帯まで、いろいろな材料のものをそれぞれの風土の中で漉いていった。でも若いときしかできないのは亜寒帯と亜熱帯だ、と思って、まずここに挑戦しました。亜寒帯と亜熱帯だけで12年もかかってしまった。そして力尽きてしまって、まだほかの所には手をつけられないでいる。
とにかく現地に通って、図書館に行ったり古老の話を聞いたりして、植生を学んで、その中から植物を選んでいった。サンプルを取って、試しに漉いてみたりね。古老に何を聞いたかというと、歴史的な話です。亜熱帯でいえば、ガジュマルが人間の暮らしとどうかかわってきたのか、というようなことを聞く。こうやって追っかけないと、なかなか現地の風土に根差した植物には当たらないんです。
それでやっと10種類から15種類ぐらいに絞り込んで、次にはその材料を取らしていただく許可を取る。そうして手に入れた材料を使って、大きな紙を漉いていく。
亜熱帯は沖縄本島でやりました。本島が一番やりやすかったのね。古老の話も、ギリギリ間に合った。あそこで聞いておかなければ、聞けなかったと思います。亜寒帯は音威子府(おといねっぷ)村。稚内から車で2時間ほどの村で、道内でも有数の豪雪地帯。降雪量は12mを超えることもある。北海道は自然があって良い、というのは大間違いで、開発され尽くしていることがわかった。もともとは80〜90%が森林だったのに、全部開墾されたからね。国立公園と道有林、国有林、演習林ぐらいしか、自然の植生が残っていないですよ。それで音威子府の北海道大学の演習林がある所に行ったんです。そこの村長さんから、村有林の伐採の許可を得て、キャンプ場で漉いた。
私がやったのは、紙漉という人類が持っている知恵を借りて、風土に根差した植物の樹皮と取組み、それらが内包する個性を引き出すことです。ここまでやらないと、できないんだから。単なる製作を超えて、研究だね。ただ、研究者と違うのは忘れてしまうところ。論文も書かないしね。でも、つくったものは残るし、見てもらえるから。
小さいものをつくって大きなものの感触はつかめますが、そのものらしさは、やはり大きなものでしか表現できない。だから、まだ体力のあるうちに大きなものをつくろうとしています。
北海道でも沖縄でも、材料と出合って、漉く場所を与えられたら、水はそこで手に入るものを使うしかない。沖縄では、天水。それもないときは、水道水を使いました。それすらないときは、海の水を使いました。海水を使ったというよりは、砂浜で、海の中で漉いたんです。あるがままです。現地主義というのは、そういうことでしょ。
引き潮のときに漉いたんですが、やっぱり引き潮のときと満ち潮のときとでは全然違うのですよ。引き潮のときは砂浜に水溜まりができて、満ち潮のときは波が出てくる。その波の跡が、紙に残るのよ。2007年(平成19)に沖縄県の浦添(うらぞえ)美術館で展覧会をやったんですが、やっぱり見た人から「沖縄らしい紙だ」と言われましたよ。
樹皮というのは、生命図。植物そのもの。花とか葉っぱは、みんな、馴染みがある。木だって木目でわかる。でも、樹皮のことは知らない。捨てられるものだし。
縄文時代では使っていたんですよ。戸板に張ったり屋根にしたり、生活の道具として使っていた。樹皮文化というのは、今は廃れていますね。
よく言うんですが、私たちが使っている木というのは〈骨〉なんですよ。紙に漉く樹皮の部分は、木がいわば〈血〉であるミネラルやら何やらを吸い上げて、全身、つまり〈肉〉に行き渡らせる役割をしている。だから、私は狩猟民族のようなものです。
椿を使ったときには、ものすごく良い匂いがした。嗅ぐだけで長生きできそうな匂い。トラック5杯分の木の皮を剥いていたら、腱鞘炎になっちゃった。
これは暮らしの身近にある植物を漉いてみよう、と始めた試みの一つです。庭にごく普通にある、人の暮らしの身近にある植物を漉いてみる。材料は、剪定した枝をいただいています。木が弱らないように、剪定は冬場に行なうから、余計に剥(む)きにくい。ミモザから始まって、ザクロ、キンモクセイ、梅、楓、椿に挑戦しました。
普通の紙漉と違うから、つくりづらいけれど、いじけてねじれたような木が面白いものになる。素材が持っている力が、意外性を生むこともあるしね。機能紙の場合は、真っ平らで歪んでいないことが当たり前。歪んだら失敗なんだけれど、私の紙漉は機能じゃないから、歪みも楽しめる。
発色なんかも、面白いものが出る。アルカリ液に浸して醗酵させた段階ぐらいで、色に関するイマジネーションが湧いてくる。中に入っている鉱物的なものが出てくるからね。タンニンなんかは、乾燥すると色が濃くなる。タンニンの少ないヤツは雪に晒して紫外線をバアーっと当てたら、白くなるしね。
人間と同じで、曲者が面白いんだね。
だから、作業を人手に渡せないの。下ごしらえは単純作業だからアシスタントにやらせて、最後の仕上げの漉くところだけ親方がやる、という方法は、私の場合はとれない。すべての工程で、植物が発する力を体感したいから。それを感じて、自分のイマジネーションが刺激されて、次の工程に進むんです。紙を漉く、というのは、最後の仕上げにすぎないのよ。その前から、材料をつくるところから、作業は始まっているんです。
歪みを少し強調してやるとか。でも、その加減をどこで止めるのかが難しい。自然の力に逆らわず、でも、表現したい気持ちを充足する。その案配が難しい。
始めた当初はそこまで考えなかったけれど、どこまで手を加えるかが、私の今一番の葛藤です。素のままにしておくのか、人間の力でねじ伏せるのか。人間の業というかエゴというか、どんどん力づくでつくっていきたくなる。今の私はそれをできるだけ我慢して、植物自体が持てる力をあらわになっていくのを、わくわくしながら待っているのです。
(2010年7月26日)