編集部
平日も観光客で賑わう浅草、その対岸の東京スカイツリー®をランドマークとする本所、ここ数年ぐっと人気が高まりつつある蔵前と深川。今回はこの四つのエリアを「イースト・トーキョー」と見なして今昔を探った。
浅草寺のご本尊は隅田川からすくい上げられたと伝わる。隅田川テラスの整備で水辺は再び身近になった。湿地帯の水を集め、運搬路でもあった掘割とその周辺に住む人たちの身分を越えた交流から文化が生まれ、かつての職人と問屋のまちは今も健在だ。掘割と昔の倉庫の思いがけない使われ方も見聞きした。隅田川・運河と人々の結びつきは予想以上に深く、今も生きていた。
隅田川は荒川放水路との分岐点・新岩淵水門から下流23.5kmを指すが、かつては利根川水系だった。江戸初期に徳川幕府が行なった大規模な河川改修で付け替えられ、現在は荒川の分流と位置づけられている。
その名は『古今集』や『伊勢物語』など平安時代からさまざまな文献に見られる。春は桜、夏は花火、秋は月見、冬は雪景色と多様な表情を見せる隅田川に、武士も町人もこぞって出かけた。その光景は北斎、広重らが描いた浮世絵に残されている。
舟運の大動脈というだけでなく、隅田川は江戸で生きる人々の心のよりどころだったのだ。
隅田川の夏の風物詩として有名な両国の花火は、1733年(享保18)5月28日、八代将軍吉宗が西国の凶作と江戸市中の疫病を退散するために行なった水神祭で、周辺の料理屋が花火を奉納したのが始まりとされる。
この花火は「川施餓鬼(かわせがき)」として打ち上げられたとも伝わる。川施餓鬼とは水死者の霊を弔うために催す供養の仏事で、川辺や川に船を浮かべて行なわれるもの。実は隅田川では今も続けられている。先代が始めた川施餓鬼法要を受け継いだという住職は「江戸の大火、関東大震災、そして戦災。隅田川ではたくさんの人が亡くなっていますね。小規模でも続けていくことに意味があると思います。PRはしません。通りがかった人が気づいてくれたらそれでいいのです」と語る。
川施餓鬼の一種に「流灌頂(ながれかんじょう)」があるとも聞いた。『笑うどくろ』(実業之日本社1984)の著者で「流れかんじょうの幽霊」という話を書いた劇作家・演出家の岡崎柾男さんにお会いした。流灌頂は水死者だけでなく、お産で亡くなった女性のための儀礼でもあったそうだ。
「川の流れのきれいなところを選び、四本の青竹もしくは板塔婆を立て、縄を結んで白い布か赤い布を張ります。布が色あせたり、布に書いた経文が消えたり、布に穴が開くまで仏は浮かばれないと信じられていました」(岡崎さん)
通りがかった人に水をかけてもらうために、竹製のひしゃくも添えてあったという。水をかけることがすなわち供養なのだ。
流灌頂のように「水をかける」という行為は霊的なことにまつわる。
赤坂・日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭と並ぶ江戸三大祭りの一つ、富岡八幡宮の例大祭は「水掛祭り」と呼ばれる。観衆が担ぎ手と神輿に「清めの水」を浴びせるのだ。今年は三年に一度の本祭り。私事だが、江東区の知人に誘われて担ぎ手として参加した。朝5時集合で終わったのは夕方5時近かった。担ぎ手が足りない時間帯もあるので、住民でなくても紹介者がいる場合に限り担ぐことができる。例大祭を続けるために、そういう寛容なしくみもあった。
神輿を担いで感じたのは、担ぎ手だけでなく、水をかける沿道の人たちも含めて、みんなのお祭りなのだということ。家の前で待ち構えてうれしそうに水をかけてくる子どもたちのなかから、次の担ぎ手は現れる。そうして何百年も続いてきたのだ。
もう一つ感じたのは、よそ者の私を練習会のときから快く受け入れてくれた江東区の皆さんの温かさ。担ぎ終えると飲み会にも誘ってくれる。でもしつこくない。これが江戸っ子の「意気」なのか。
今は粋と記されることが多い意気は、18世紀後半の江戸の町人文化に成立した美意識のことで、意気に基づく行動原理を通(つう)という。人情の機微を理解し、いやみなく見栄を張らない。
同じような感想をシエロ イ リオの吉田浩介さんとNui.の桐村琢也さんも抱いていた(「ゆるやかにつながる「職人のまち」」参照)。青森出身の吉田さんは「人が温かいところは青森と似ているけれど、蔵前の人の方がズバッと言いますね」、大分出身の桐村さんは「お酒を飲むと賑やかで気っ風(きっぷ)がいい。面倒見もいいですが怒るときには怒ります」と笑う。よそ者を拒まない人情味がある一方、義理を欠くようなことには黙っていられない気質が見える。
概説をお願いした山本博文さんは「昔からの土地の気質や記憶は続いているもの」と言った(「江戸と東京は今もつながっている」参照)。江戸からの下地があり、そこに若い人やよそ者が入り込んで新陳代謝が起きる。浅草でさえ人が寄りつかない時期もあったが、サンバカーニバルなど新しいイベントを導入して見事復活した。よそ者を拒まず、変わることを恐れない。だからこそ、人と人が次々とつながって、おもしろいことが起きているのだろう。
これからもイースト・トーキョーから目が離せない。