機関誌『水の文化』70号
みんなでつなぐ水 火の国 水の国 熊本

水の文化書誌60
文献にみる筑後川
──文学・詩歌・歴史紀行

古賀 邦雄

古賀河川図書館長
水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄(こが くにお)

1967年西南学院大学卒業。水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社。30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。2001年退職し現在、日本河川協会、ふくおかの川と水の会に所属。2008年5月に収集した書籍を所蔵する「古賀河川図書館」を開設。
平成26年公益社団法人日本河川協会の河川功労者表彰を受賞。

はじめに

筑後川は、その源を熊本県阿蘇郡の瀬の本高原に発し、山岳地帯を流下し、大分県日田(ひた)市において、九重(くじゅう)連山から流れる玖珠川(くすがわ)を合わせ山間盆地に入り、夜明峡谷(よあけきょうこく)を下り、福岡県うきは市、朝倉市を過ぎ、隈上川(くまのうえがわ)、巨瀬川(こせがわ)、佐田川、小石原川(こいしわらがわ)、高良川(こうらがわ)を合わせ、久留米市、大川市に至る。さらに佐賀県に入り、田手川(たでがわ)、城原川(じょうばるがわ)と合流し肥沃な筑紫平野を貫流し、早津江川(はやつえがわ)を分派して有明海に注ぐ。幹川流路延長143km、流域面積2860km2の九州最大の一級河川である。

筑後川流域の人々は昔から水害などの災害に遭遇しながらも、灌漑(かんがい)用水、生活用水、発電用水、舟運などにさまざまな形で利用し、その恵みを享受し、その都度喜怒哀楽の時代を過ごしてきた。このことは文学・詩歌、歴史紀行に著されている。その書を追ってみたい。

筑後川の文学

筑後川の文学について、あえて次のように捉えてみた。

「筑後川を治水や利水や環境の面からみて、公共福祉のために施行される事業、その事業に誠意で尽くす人々の人間性を追求した小説・記録・評伝の作品である」

筑後川の文学について、①江戸期の大石堰の開削、②明治期の九重高原の開発、③昭和30年代の下筌(しもうけ)ダム建設闘争に関する作品を挙げる。

筑後川中流域には、灌漑用水として上流から順に、左岸側に寛文8年有馬藩・袋野堰、寛文4年有馬藩・大石堰、寛文4年右岸側に黒田藩・山田堰、正徳2年有馬藩・床島堰がそれぞれ開削され、今でも農地を潤す。

五庄屋が大石堰を開削した小説として、林逸馬著『筑後川』(第一藝文社・1943)があり、この書『筑後川』を現代文にわかりやすく作成した三浦俊明著『筑後川―五人の庄屋の挑戦とそれを支えた郡奉行の苦難の道のり』(うきは市・大石堰土地改良区・2005)が刊行された。それに帚木蓬生著『水神(上)、(下)』(新潮社・2009)と3つの書がある。

五庄屋が大石堰築造にかかわる苦悩の物語である。五庄屋は「銘々―命を捨て申候ても願可申旨、誓紙血判仕堅申合」と命を投げ打っての請願であり、もし失敗したら五庄屋は全員極刑に処される。工事中にはすでに五本の磔柱が建てられた。このような心境のなかで、五庄屋と農民たちは心を一つにして堰開削を成し遂げた。

水害によって人の運命も大きく左右される。1889年(明治22)7月に筑後川を襲った大水害は、久留米市一帯にも大被害を及ぼした。古賀勝著『大河を遡る―九重高原開拓史』(西日本新聞社・2000)は、大水害で田畑を失った久留米市などの農民らが、1894年(明治27)、元久留米藩士青木牛之助の指導の下に、大分県飯田高原千町無田に移住する苦難を描く。1992年(平成4)、朝日神社に「千町無田開拓百年記念碑」が建立された。

鶴良夫著『筑後川渡船転覆』(リーベル出版・1992)によると、1943年(昭和18)10月9日、佐賀市赤松国民学校の児童たちは筑後川左岸柳川市三柱神社に出かけたが、帰路に大雨に遭い、佐賀県諸富町の石塚の渡しに着く直前に転覆。引率の副田美代次先生は15人の教え子を助け出したが、力尽きて学童6人とともに激流に呑まれた。渡船転覆の悲劇であった。1944年(昭和19)10月19日、「副田先生顕彰之碑」が筑後川河口昇開橋の地点に建つ。

1953年(昭和28)6月、筑後川大水害が起こった。建設省(当時)は水害を防ぐために、筑後川上流に下筌ダムと松原ダムを建設した。下筌ダムの水没者の一人室原知幸は、1957年(昭和32)から1970年(昭和45)の13年間、ダムサイト地点に「蜂の巣城」を築き、ダム建設に対し公共事業の是非を問い続けた。松下竜一著『砦に拠る』(筑摩書房・1977)、佐木隆三著『大将とわたし』(講談社・1968)、杉野なおき著『蜂ノ巣城』(叡智社・1972)、室原知幸著『下筌ダム―蜂之巣城騒動日記』(学風社・1960)がある。

  • 林逸馬著『筑後川』

    林逸馬著『筑後川』

  • 古賀勝著『大河を遡る―九重高原開拓史』

    古賀勝著『大河を遡る―九重高原開拓史』

  • 鶴良夫著『筑後川渡船転覆』

    鶴良夫著『筑後川渡船転覆』

  • 松下竜一著『砦に拠る』

    松下竜一著『砦に拠る』

筑後川の詩歌

川の上流は清流が流れ、青春のようであり、中流は少し濁り、成年に譬えられ、下流は清濁を合わせて老年のようになり、やがて海に注ぐ。川の流れはまさしく人生そのもの。このような川の流れに、人々は詩情を抱き多くの詩歌が生まれる。

丸山豊作詞・團伊玖磨作曲『混声合唱組曲 筑後川』(河合楽器製作所・1969)は筑後川を讃えている。筑後の医者であり、詩人・作家でもある丸山豊は、阿蘇を水源とする筑後川を謡い、その詩に筑後とゆかりのある團伊玖磨が作曲したものである。曲は5楽章である。「みなかみ」「ダムにて」「銀の魚」「川の祭」「河口」からなる。團は語る。「雨の一粒が大河となって海へ出ていく姿を見る思いが捉われるのは作曲者としての感慨だろうか」。1968年(昭和43)、久留米音協合唱団に初演以来、歌い継がれ、そのエッセイ集として河合楽器製作所編・発行『筑後川―合唱組曲「筑後川」とともに辿る』(1998)、中野政則著『筑後川よ永遠なれ』(出窓社・2018)が発行されている。

「筑後川101」記念実行委員会編・発行『筑後川流域小中学校校歌集』(1986)には、363校の校歌が収録。久留米市立の小学校校歌をみる。

〇京町小学校校歌「筑後の川風 におえよ頬に みんな明るく あふれる力 京町 京町 京町 ああ伸びゆく 我等 京町校」
〇小森野小学校校歌「ゆたかに澄める筑後川 清き流れを鏡とし 強く正しく生きるため われらの心 磨くのだ のびよ のびよ われらの小森野小学校」

ふくおかの川と水の会編・発行『川と小学校校歌(5)北筑後地域編』(2014)を歌う。

〇吉井小学校校歌「耳納の連峰はるかにかすみ 筑後の大河うしろにひかえ いせきの水のつきせぬほとり 和が学び舎のすべて美し」
〇千年小学校校歌「村の名におう 千年川 流れも清し 水深し 上り下りの真帆片帆 目もはるかなる 眺めかな」 筑後川は伸びゆく児童たちへ、母なる川として、常に慈しみを持って見守っている。

8月1日は「水の日」、水に感謝して水を大切にする日である。この日から1週間を「水の週間」と定めている。大牟田市の俳句会「さわらび」の人たちに、水の日にちなんで1997年(平成9)8月3日「筑後川用水事業施設見学会」を行ない、水や筑後川を詠んでもらった。それをまとめたのが水資源開発公団筑後川下流用水建設所編・発行『句集 筑後・佐賀揚水機場』(1997)である。5句を挙げてみた。

〇筑紫次郎捌く大堰秋近し(堤 三津子)
〇水の日の水路たどりし青田道(天藤顕子)
〇用水場管理の人の日焼けかな(谷川章子)
〇水澄みて筑紫次郎の歴史知る(蓮尾美代子)
〇水生きて青田潤す三方町 (平田縫子)

筑後下流用水施設は、筑後大堰にて貯留した水を福岡県側、佐賀県側に農業用水、上水を配水する施設で、1998年(平成10)に完成した。

筑後川流域は、上流から広瀬淡窓、原古処、野田宇太郎、丸山豊、岩崎京子、古賀政男、下村湖人ら多くの文人を輩出する。

  • 丸山豊作詞・團伊玖磨作曲『混声合唱組曲 筑後川』

    丸山豊作詞・團伊玖磨作曲『混声合唱組曲 筑後川』

  • 水資源開発公団筑後川下流用水建設所編・発行『句集 筑後・佐賀揚水機場』

    水資源開発公団筑後川下流用水建設所編・発行『句集 筑後・佐賀揚水機場』

筑後川の歴史・紀行

筑後川は、古くは千歳川、千年川、一夜川、筑間川と呼ばれていた。久留米市観光協会編・発行『筑後川の古名 ちとせ川の名称に関する文献』(1937)は、徳川幕府によって正式に「筑後川」となったのは寛永15年と記す。筑後川の歴史・紀行を挙げてみる。

角田嘉久著『筑後川歴史散歩―143キロの流れ』(創元社・1975)は筑後川の入門書といえる。河口の大川市から筆をおこし、風浪宮や酒どころ城島の歴史を語る。久留米市においては画家青木繁と坂本繁二郎、久留米絣の生みの親・井上伝女、からくり儀右衛門、ブリヂストンの創業者石橋正二郎を述べる。さらに芥川賞作家火野葦平が愛した田主丸町の河童、日田に入ると天領日田の歴史、広瀬淡窓の咸宜園(かんぎえん)を論じる。

柳勇著『筑後河北誌』(鳥飼出版社・1979)は、筑後川の北の地域をくまなく探索。古代から奈良朝、平安朝、鎌倉、室町、戦国、江戸期の有馬藩などの政治と文化を紐解く。日本三大合戦と言えば、川中島の戦い、関ヶ原の戦いであるが、もう一つが筑後川の戦い(大原の合戦)である。鎌倉幕府崩壊後、南北朝に分かれ、大宰府の覇権争いにおいて、足利尊氏派小弐頼尚ら北朝軍6万人と後醍醐天皇派南朝軍・懐良親王・菊池武光ら4万人が筑後川沿いで争った。正平14年(1359)8月のことである。

おわりに、田島よしのぶ著『筑後川紀行』(葦書房・1988)、玖珠郡史談会編『玖珠川歴史散歩』(葦書房・1991)、田山花袋・小杉来醒著『水郷日田―附・博多久留米』(日田商工会・1927)、大分県玖珠九重地方振興局編・発行『筑後川源流を行く―大分県日田・玖珠紀行』(1995)を挙げる。

  • 角田嘉久著『筑後川歴史散歩―143キロの流れ』

    角田嘉久著『筑後川歴史散歩―143キロの流れ』

  • 柳勇著『筑後河北誌』

    柳勇著『筑後河北誌』

PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 70号,水の文化書誌,古賀 邦雄,筑後川,水と生活,芸術,水と生活,歴史,水と自然,川,文学,俳句

関連する記事はこちら

ページトップへ